19 January '2004 - 03:34 | 雑記 マイクロソフトはマージ叔母ちゃんのためにプログラムを書いてきたのか
明日、会社で完成させる予定のコードの骨組みを書きながら、ちょっと気分を変えたくて、梅田望夫のブログを斜め読みした。そこにあった「WindowsとUnixのプログラマー文化の違い」というのが面白かったので、勧めに従って、そのネタである原文 Biculturalism を読んでみた。けっこう長文だったので、仕事の手が止まってしまった。興味を引くようなことを書かれると、ほんとに困る。 長文だろうがなんだろうが、一度読み始めたら読み終わるまで読む以外に方法がないので、しぶしぶ読み進む。すると、原文には、まぁ、なんていうか、日ごろから感じていることというか、きっと多くの人がそう思っているであろうことが書いてあっただけであった。Windows でも Unix でもコードを書く、一介のプログラマとしては、特に何も新鮮な視点も感じなかったし、基本的に反論はない。が、しかし、ひとつだけ違うと思うことがある。それは、マイクロソフトは、「マージ叔母ちゃん」のためではなく、むしろ、プログラマのためにこそ仕事をしてきたのである、ということだ。このことは、案外見落とされ勝ちなことのような気がしている。見落とされてしまっていることが、マイクロソフトの一人勝ちを助長してしまったとも思う。
OS というのは、プログラマがプログラムを書いてくれるようにならないと売れない。マイクロソフトは、最初からこのことの重要性を誰よりもよく理解していて、特にこの部分にこそ注力してきたといっても過言ではない。
どんなに OS X がクールで洗練されていても、プログラマがプログラムを書いてくれなければ、アプリケーションは増えないし、増えなければ「マージ叔母ちゃん」には勧められない。「マージ叔母ちゃん」のために頑張ってきたと言えるのは、むしろアップルであって、マイクロソフトではない。
大事なポイントは、マイクロソフトは、Unix のプログラマがプログラマのためにプログラムを書くようにプログラムを書いてきたのではなく、「タイラー叔父さん」のためにプログラムを書いてきたのだ、ということ。
つまり、マイクロソフトは、ハッカーのためではなく、下手くそ(というと御幣もあるが)プログラマのためにプログラムを書いたのだ。
「エンドユーザ」プログラマは、ライブラリの不具合など考えなくてもいいし、問題があってもデバグなどできなくてもいいのだ。そんなことはしたくないし、できもしないのだから。
適当なアプリケーションをでっち上げて商売をするいんちき系ソフト屋に就職したばかりの短大卒のプログラマには、emacs でコードを書いて gdb でデバグできるように修行を積ませるよりも、Access や Visual Basic でそれっぽいものをでっちあげられるように練習させた方が遥かに簡単だし、現実的だ。そして、なぜか世の中その方が儲かるのだ。
それがいいのか悪いのかではなく、世の中がそもそもそういう仕組みってことなのだ。